先駆者

Profile

本田 五郎 (ほんだ・ごろう)

1992年
熊本大学医学部卒業
京都大学外科教室研修医
1993年
市立宇和島病院・南予救命救急センター医員
1997年
京都大学大学院大学医学研究科消化器外科医員
1998年
済生会熊本病院外科医員
2000年
名古屋大学器官調節外科(二村雄次教授)で1ヵ月間の臨床研修
2004年
社会保険小倉記念病院外科副部長
2006年
東京都立駒込病院肝胆膵外科医長日本外科学会専門医・指導医、日本消化器外科学会専門医・指導医、日本内視鏡外科学会技術認定医(消化器・一般外科領域)、日本肝胆膵外科学会評議員、マンモグラフィー読影認定医

Precursor 先駆者

BACK NUMBER チャレンジングな手術も多い肝胆膵分野で患者本位を見失わず、さらに上を目指して。 VOL.01
東京都立駒込病院肝胆膵外科医長 本田五郎
サッカーを通して社会性や人間関係の機微を学ぶ

振り返れば、18歳の夏のほろ苦い小休止を最後に20年あまり、止まらずに走りつづけてきた。都立駒込病院肝胆膵外科医長である本田五郎氏は、そう振り返る。 「実は現役で入学したのは、筑波大の第3学群基礎工学類。大学進学にはサッカーという目的もあって、Jリーグのなかったあの当時、同年代のトッププレイヤーが大勢集まる筑波大をめざしました」

郷里熊本では県下トップの進学校に通いながらも、サッカーに情熱を燃やし、県代表選手として国体にも出場した。しかし、筑波大のサッカー部に入ってみるとチームメイトのレベルの高さは想像以上で、人生で初めて、挫折感を味わう。工学部の勉強にもしっくりこない思いがあり、結局、帰郷。秋からあらためて受験勉強にかかり、熊本大学医学部に入学した。
「父が外科医だったので、小さいころには『自分も医師になる』と思っていた時期もあったのです。だから医学部には最初からなんの違和感もなくなじめました」

サッカーを挫折したままで終わりにする気はなく、九州でも4強の一角だった熊大体育会サッカー部で本気のトレーニングをつづけた。5、6年次には、そこからさらに、社会人リーグに所属する強豪クラブチームに入り、再び県代表選手に選抜されて国体へ。

医学部の授業との両立は過酷だったが、大学6年間のサッカー経験は、後に、「医師には必要不可欠な社会性や人間関係の機微を学ぶいいトレーニングにもなった」と言う。

作物を育て放題、収穫し放題 そんなふうに言える修業時代
外科医としても、まだ次の目標を見つけたい

医師としての第一歩は、京都大学外科教室でスタートした。
「京大の外科医局は、他大学から行っても比較的差別がないらしいと耳にしていました。そこで無謀にもなんの面識もない小沢和恵教授にいきなり電話をしたのですが、『2週間後に生体肝移植のオペがあるから見学に来ませんか』と言っていただいた。それがきっかけで入局にいたりました」

当時、本田氏は全身を診る一般外科をめざしていた。2年目からの派遣先として、あえて京都や大阪の大病院ではなく、四国宇和島の市立病院を選んだのもそのためである。
「同期のみんなは敬遠したのですが、あの病院に行った先輩たちはなんでもできるようになって戻ってくる、医師と患者さんの間に信頼関係のある病院だとの評判を聞いて決めました。同院は医師が少なくものすごく忙しかった。でもその分、若い者にチャンスがあった。医師2年目から5年目までの4年間で、肝胆膵に限らず胃や食道、腸から、乳腺、甲状腺までジェネラルに、手術はもちろん、内視鏡や、透視までひととおり学べました。後に選んだ専門領域で言えば、膵頭十二指腸切除とか肝切除といったオペまで、宇和島時代にやらせてもらっています」

まだ駆け出しの外科医。しかし、すぐに本田氏のたぐい稀な才覚による実力が顔をのぞかせ始める。それは、「見て学ぶ」ことで得られた成果。「見て学ぶ」とは、つまり――。
「学生のころから見るのが修業、見るのも勉強と考え、同期生の何倍も手術を見ていました。最初は何もわからずとにかく延々と持久走のように見つづけ、そのうち、ここから何か学ぶためには自分なりのテーマを持たなくてはと気づいたんですね」

たとえば「胃がんのリンパ節で切除するべき部位と、すべきでない部位」をテーマに手術を見ると、面白い。次の機会までにそれをテーマに本を読んで勉強しておき、また手術を見ると、大事な部分が浮き上がって目に飛び込んでくるようになる。そんな手術の見方を学生時代に覚え、身につけていったのだ。
「宇和島でも最初の3ヵ月間、麻酔を担当しつつスタッフ3人の先生それぞれの手術をずーっと見ていました。で、いざ自分でやるとなったときには、一連の流れを覚えていますから、かなりスムーズに手術に臨めた。もちろん最初は、先輩たちのを見て覚えたとおりのコピーにすぎませんし、イメージするようには手が動かない場面も多多ありましたが」

基本的ないくつかの手術を経験し、場数を踏んで思いどおりに手が動くようになると、あとは基本の組み合わせである。
「経験を積んでいくうちに、初めての種類の手術でも、今の僕とそう変わらないスピードと手際でできるようになっていきました。宇和島病院の4年間は、まるで肥沃な大地に放り出されて、自分の育てたい作物を育て放題、収穫し放題という感じで、厳しいけれど幸せな修業時代でした」

大病院の医療に違和感を持ちついに医局を離れる

外科医としての知識・技術の修得だけでなく、後に医師人生のテーマとなるいくつかと出会ったのも宇和島病院でだった。そのひとつが、肝胆膵分野への興味である。
「何度か、交通事故による重症の肝損傷のオペに立ち会いました。難しい手術なので執刀されるのは上の先生方でしたが、救えないケースもけっこうあった。なんとかならないのか――。専門的に肝臓手術を勉強してみたいと思うようになり、大学に戻りました」

けれども、大学に戻ってみると、宇和島で、もうひとつ大きな経験を積んでいることに気づかされた。彼の地では、忙しい中でも医師は皆、一人ひとりの患者に全責任を負う覚悟で向き合っていた。本田氏はそこで、臨床医のすばらしさを味わっていたのである。
「しかし、大学病院のような大きな組織になると医療がシステマチックで、『患者さん本位じゃないなあ』と感じる場面が多かった。目の前の、この患者さんに、果たして誰が本当の責任をとるんだろうか……。そんな疑問が拭えませんでした」

結局、1年半後には、医局を去る。そして、降り立った新しい地は、済生会熊本病院。卒後7年目、外科医として心技体いずれも充実する時期だった。

人がやらない、やれない仕事を見つけて挑みつづける

「ところが、同院は熊大の関連病院で外科は僕以外全員、同大の医局員。僕は僕で自信もあれば鼻っ柱も強い(笑)。出る杭は打たれるというか、冷や飯食い状態――、サッカーで言えば思いっきりアウェイの環境でした」

人がやらない、あるいはやれない分野の仕事を見つけてやっていくしかない。まずは、腹腔鏡下手術に挑む。本田氏は、卒後3年目くらいから大腸を中心にかなりの症例数を経験していたが、済生会熊本病院では、腹腔鏡はまだほとんど手がけられていなかったのだ。ちょうど、クリニカルパス導入により入院日数短縮化が求められていた時期で、需要は十分にあった

手術は「見て学べる」という信念で学生時代から、とにかく見つづけた。持久力と集中力も、外科医必須の能力。

「腹腔鏡下手術の中でも、当時、あまり普及していなかった胃の縮小手術にチャレンジしました。1年がかりで過去の症例データ1200例を全部入力し、エビデンスを集めた。大きさや条件など、縮小手術していいカテゴリーを特定してまとめたレポートを院内で発表し、みんなを納得させた結果でした」

しばらく腹腔鏡下手術を一任されたが、2年ほどして他の病院から腹腔鏡下手術ができる医師が赴任してくると本田氏は症例のデータベースごと仕事を譲ってしまう。
「そこはあっさりと切り替えて、じゃあ次は何をしようか!って(笑)。みんなにできなくて、自分にできることは、まだほかにも、きっと見つかると確信していたんですね」

結局たどり着いたのが、当時、済生会熊本病院でもっとも弱かった肝臓・胆道分野の手術。京大では、肝臓を専門とする山岡義生教授のもとにいながら肝臓手術は前立ちまでしか経験していなかった。それでも本田氏は、しっかり真剣に数多く「見て」きたので、いつでもやれる自信があった。

さすがに1例目は前立ちで入ったが、彼の的確なサポートぶりから「肝臓は本田がうまい、本田に任せよう」という評価を得たそうだ。
「いつの間にか肝胆道分野の手術は全例、僕にまわってくるようになりました。それまで年間せいぜい7、8例だった肝胆道の手術が、僕が手がけるようになってから40例ほどに増えた。専門と言える分野を獲得し、厳しい環境でもなんとか生きていく道が開けました」

5年半在籍した済生会熊本病院では、最終的に肝門部胆管がん手術まで手がける。適用の見きわめも、術式も、血管浸潤の合併切除といった組み合わせの点でも、きわめて難易度の高い手術。独自に少しずつステップアップしながら、最終的に約150の肝胆道症例を手がけたそうだ。
「難易度の高い肝胆道の手術には、致死的な合併症のリスクがついてまわります。でも、名もない若い外科医が1例でも重篤な合併症を起こせば、たぶんそれから先はなかったでしょうね。失敗できないトーナメント戦を150試合戦って勝ち抜いていくようなものでした」

肝胆膵を専門に消化器外科医として着実な歩みをする一方で、外科医である以前にひとりの臨床医であるという意識も強く持ちつづけていた。特に患者本位の医療の在り方については、宇和島病院での新人時代にターミナルケアにかかわって以来、常に考えつづけていたのである。

済生会熊本病院時代に手がけたチーム医療システムやクリニカルパス開発は、その延長線上と言えるものだ。
「当時の僕は、症例数の少ない肝胆道の手術しか活躍の場がなく、かなり時間を持てあましていました。そんな様子を見知った関係者に、パス開発のチームに呼ばれたのがきっかけです。首を突っ込んでみると、パスはチーム医療のツールとして有効だとわかり、どんどん興味が深まりました。いろいろ意見を言ううちに、委員会の副委員長やセミナーの講師まで任されるようになった。外科ではとことんアウェイの立場でしたが、済生会熊本病院そのものは、気づけば、すっかり僕のホームになっていましたね(笑)」

外科医としても、まだ次の目標を見つけたい

2004年、「腹腔鏡下手術に力を入れたい」と招聘を受けた小倉記念病院に移り胃や大腸、胆嚢の腹腔鏡下手術をメインに手がけて2年をすごす。そして2006年春、都立駒込病院へ。手術の専門性をきわめるにしても、より積極的に研究や論文執筆をするにしても、地方の小さな町では限界があると感じたからだ。

しかし、ようやく一人前の専門医としてのポジションを獲得してみると、自分が大きな壁にぶつかっていることに気づいた。たとえば、ぽっかり開いた穴に落ちた状態にあったと言い換えてもいい。臨床の現場における消化器外科医としては、目標としてきたレベルには、もう達している――。確かに指導者、研究者としてなら、まだ成長の余地もあるだろう。とはいえ、今すでに40歳。これから先、果たして今のままでいいのか、自分は満足できるのか――。自問自答の日々がつづいたという。
「ここ1年は、臨床面で外科医人生の第一段階を終え次に何を目標にすべきかに迷った言わばモラトリアム期間でした。でも、そろそろ次の何かを見つけ、そこに向かって突進したい気分が募ってきています」

なるほど、ハーフタイムにさしかかっていたようだ。呼吸を整え、戦術を見直し、ゲームを“決める”ための後半戦に飛び出していく。今はそういう時期なのだろう。もちろん、ひとたび走り出せば、本田氏はまた、ゲームセットのホイッスルまで休むことなく走りつづけるはずだ。

DOCTOR’S MAGAZINE 2008年1月号より転載 (取材・文:中村裕子 編集:及川佐知枝 撮影:木内博)
BACK NUMBER

閲覧履歴最近閲覧した求人情報はこちら

マイページへ

医師の転職・求人・募集情報ならMediGate(メディゲート)医療業界の転職をフルサポートします