先駆者

Profile

中島 勧(なかじま・すすむ)

1991年
東京大学医学部医学科卒
東京大学医学部附属病院整形外科研修医
1992年
焼津市立総合病院整形外科医員
1993年
JR東京総合病院整形外科医師
1995年
東京都立台東病院整形外科医師
1996年
東京大学大学院医学系研究科外科学専攻入学
2000年
東京大学大学院修了後、東京大学医学部附属病院整形外科助手
2001年
東京大学医学部附属病院整形外科医局長
2002年
東京大学医学部附属病院救急部医局長
2004年
東京大学医学部附属病院救急部副部長
2005年
東京大学医療政策人材養成講座特任講師(兼任)
2007年
東京大学医学部附属病院救急部特任講師(病院)
2008年
東京大学政策ビジョン研究センター准教授
2009年
東京大学医学部附属病院医療評価・安全・研修部講師
東京大学医学部附属病院医療安全対策センター長
2010年
東京大学大学院医学系研究科救急医学講座准教授
東京大学医学部附属病院救命救急センター準備室長(兼任)

Precursor 先駆者

BACK NUMBER 医療と社会の接点に 山積した課題。解決に誰も 着手しないなら、私が取り組む。
東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部副部長/医療安全対策センター長 中島 勧

医療が社会的存在である側面を、真剣に考える医療人はいかほどいるのか。ビジネスが糸目をつけず利潤のみを追えば、社会が荒廃する。物理学が社会倫理を無視すれば、次々と人類滅亡の兵器が生み出される。だからこそ、専門家集団は、常に社会に与える影響を考察し、自分たちの行動に規範を見出さなければならない。社会との接点に、敏感でなければならない。

医療の持つ社会的側面を考え、研究し、実践しているのが中島勧氏だ。医師の立場で視線を向ける人がほとんどいなかったため、解決などなく、ひたすら課題が積み重ねられつづけてきた分野。中島氏の歩みの一歩一歩が、医療の未来を拓く道へとつながっている。

気づけば、ほかの医師とは異なるキャリアが形成されていた

人の一生を72年と仮定すると、1日に1時間多く眠ることは、3年早く死ぬに値する。寝るのはもったいない。中島氏は中学生にして、そんな考えを持つ少年だった。医師をめざした理由も実にユニーク。「眠らない習慣が身についていたので、睡眠時間が少なくてすみ、社会の役に立つ職業は何かと考えた結果、医師になろうと決めました」

そして、大学1年生のときに遭った父の死、研修医1年目で患った自己の大病を経て、「人はいつ死ぬかわからない。だからこそ自分がやるべきは、なんでもしよう」と意志を固める。

専門に整形外科を選択し、外傷やスポーツ医学を中心として臨床を経験した後、大学院へ進学。最先端のコンピュータ外科分野で、ナビゲーション技術を用いた脊椎手術の研究に没頭する。2000年には、東大病院整形外科に着任した。

中島氏のキャリアが転機を迎えたのは、2002年7月。同院救急部への異動がきっかけだった。救急部・集中治療部の部長は、既存の医療の枠を超えた多彩な活動で知られる、東京大学大学院医学系研究科救急医学講座教授の矢作直樹氏。実は、矢作氏と中島氏はすでに面識のある仲。

「大学院時代、私は医用工学を学ぶ学生として、当時、医師でありながら工学部の教授を務めていた矢作先生の研究指導を受けていたのです。今にして思えば、私たちらしい、医師免許を所持した者同士とは思えない出会いでした(笑)」

矢作氏は、出会った場所のせいか、部下となった中島氏が持つ、生来の好奇心の強さ、集中力、偉才に気づいていたものと思われる。異動してきた翌年から開設されていた「医療政策人材養成講座」と称する、当時、矢作氏がもっとも力を入れていたプロジェクトで中心メンバーに据え、その後特任講師も任せた。さらに、法学部が中心となって設立された東京大学政策ビジョン研究センターに派遣し、そこから戻れば、次は医療安全対策センター長なる病院の存亡を担う要職を与える。東京大学大学院医学系研究科救急医学講座准教授となった2010年には、救命救急センター準備室長まで兼務することになった。

「矢作先生についていったら、気づけばほかの医師とはまったく異なるキャリアが形成されていました(笑)。先生の仕事のお手伝いで、自治体との交渉なども経験しています。

ただ、私のキャリアを見て周囲の皆さんが感じられるほど、医師として異質な道を歩んできたとの感想は、私自身にはありません。医療界には、たくさんの社会的な問題があり、あまりに顧みられず、放置されつづけてきた。それらの問題解決のために医師にしかできないアプローチをしているだけのことです」

高度なテーマに黙々と取り組み、ものにする底知れないパワー
東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部副部長/医療安全対策センター長 中島 勧高度なテーマに黙々と取り組み、ものにする底知れないパワー

それにしても2002年以降、よくもこれだけ多分野の仕事にたずさわってきたものだ。並行して進めてきた仕事もあるだろう。多くの苦労があったのではないかとの疑問を投げかけると、異彩を放つ、肩の力の抜けた答えが返ってきた。

「私は、頼まれたことは、できる限り引き受けるつもりでいますから(笑)。

引き受けた、どの分野の仕事にも必ず面白さがある。医療を取り囲むさまざまな分野を見せてくれる矢作先生には、心から感謝しています」

おそらく中島氏には、頼まれて、やるかやらないかを考えている時間さえが惜しいのだろう。矢作氏が中島氏のどんな資質を見抜き、目をかけたかがわかる気がする。凡人であればやる前に怖気づきそうな難題、高度なテーマに黙々と取り組み、ものにする底知れないパワーを中島氏は持っている。

頼まれたことを引き受け、結果、自らが出したアウトプットに対してなされた周囲の評価、形成された環境については十分に満足感を得ているようだ。

「とはいえ、これは医師が手がけるべきなのかと、私でさえ疑問を抱く案件もあります(笑)。しかし、驚かされるのは、院長をはじめとした上層部が、私のしている活動を許容し、すべてではないにせよ高く評価してくださっている事実です。東大病院が、いかに高い社会的使命を自覚しているかの証と言えるのではないでしょうか」

今後も医療に関する社会的なテーマを活動の主軸に

「現在、私は、問題を発見し、あれこれ思案し、工夫すると喜んでもらえる立場にあります。今のポジションがなくならない限り、これからも、医療に関する社会的なテーマを活動の主軸にしていくつもりです」

医療に関する社会的なテーマと言えば、医療崩壊が喧伝され国民が医療に不信感を持っている現状は、まさに中島氏が手がけるべきテーマのひとつだろう。もちろん中島氏は、切れ味鋭い見解を示してくれた。

「医療人が、医師不足を元凶として医療不信の解消に関し思考を止めているのに疑問を持ちます。確かに、地方には深刻な医師不足があるようです。しかし、都会の病院でも本当に人数が足りないのでしょうか。

従来のシステムを最適化する工夫もなしに医師不足を医療崩壊を引き起こした犯人にするのは、どう考えてもおかしい。『病院が多くある地域の、病院の機能分化は徹底されているのか』、『夜の救急が人手不足なら、当直ではなく交代勤務を模索してみてはどうか』──そういう話は残念ながら一向に聞こえてきません」

医療安全確保の鍵はコミュニケーションにあるとの持論を実践

中島氏が今、直近のテーマとして取り組んでいるのが医療安全対策だ。医療安全確保の鍵は、コミュニケーションにあるとの持論を実践に移している。

「インフォームド・コンセントに代表されるように、医療人と患者の間のコミュニケーションが重視されるようになったのは医療にとって大きな前進です。ただ、それに比して『チーム医療を』とかけ声ばかりで医療を提供する側の内部のコミュニケーションは、いまだに軽んじられています。

極論すれば、看護師は看護師としか、医師は医師としか交流しようとしない。そんな慣習が残った環境では、コミュニケーションエラーが起こって当然です。

いっしょに働く仲間が何を考えているかさえわからない医療人に、その先の、もっと遠いところにいる患者の気持ちなど、わかるはずがないという表現もできます」

医療安全対策センター長である中島氏が司会を務める医療安全会議では、出席した各部署のリスクマネジャーたちから「挨拶から始めよう」、「指示書は文通する気持ちで」などの行動指針が、各部署に伝達され始めているという。中島氏の考えるコミュニケーション重視の風土が、着実に広がっている。

「最近、救急部員として出席した国立大学救急部連絡協議会の会合で、『ところで貴院では、なぜ、そんなに周囲が救急部に協力的なのですか?不思議でなりません』と質問されました。

第三者からの指摘で、気づきました。当院には、いつからか救急や医療安全について、病院全体で考える風土がつくられつつあることを。

私は、このような風土は、やがて縦割りの組織さえ変化させ、新しい時代に即したシステムを生み出していくと確信します。生み出されたシステムが、やがて周囲の病院にも受け入れられ、新しい時代の新しい医療を支えていくようになったら──。かなりワクワクする連想です」

DOCTOR'S MAGAZINE 2010年08月号より転載 (取材:中村敬彦 文:清水洋一 撮影:木内博)
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