先駆者

Profile

秋野 公臣 (あきの・きみしげ)

1997年
札幌医科大学医学部医学科卒業
札幌医科大学内科学第一講座研修医
1998年
市立室蘭総合病院消化器科研修医
1999年
市立室蘭総合病院消化器科医員
2001年
国立がんセンター東病院内視鏡部・病理部研修医
2002年
浜益国保診療所所長
札幌医科大学内科学第一講座大学院入学
(附属がん研究所分子生物学部門にて研究開始)
2006年
札幌医科大学内科学第一講座大学院卒業
(附属がん研究所分子生物学部門にて学位取得)町立別海病院内科医長

Precursor 先駆者

BACK NUMBER がん抑制遺伝子発見の偉業。そして、葛藤の果てに臨床への回帰を決意。
町立別海病院内科医長 秋野 公臣
北海道の東端、酪農の地で内科医として活躍

北海道野付郡別海町――北海道の東端、海の向こうに国後島を望む、静かな酪農地帯だ。秋野公臣氏は、2006年から内科医として町立別海病院に勤務している。インタビューは、先立って知らされていた同院の医師定着率の高さへの質問からスタートした。

「最大の要因は、住民の意識でしょう。酪農を生業とする方々は、老死する牛を何度も看取っています。要は、死生観ですね。『生きものは、歳をとったらいつか死ぬ。当然の理だ』との考えが根づいているのです。患者の死に関して医師や病院の責任を問う着想そのものがほとんどない。そんな居心地の良い場所に医師が定着するのは、当たり前でしょう。都市部で医療の裁判沙汰が多いのは、当然の死生観を持つ人が少ないからなのかもしれません。都会からこちらに来た私には、『これが本来の人間の生と死の在りようなのだ』と、目を開かせてもらった感があります。
今、医療従事者が辛くなっているのは、自信をなくしているからでしょう。地元の人に感謝されず、誇りが持てないから自信もなくなる。当地では、医師が自信を失うような環境はまったくありません」

言葉の端々に、公私ともに別海町での生活を謳歌している様子を漂わせる。
「卒後10年目の医師人生を小さな町立病院で充実させる若手医師」と聞けば、ほとんどの者が、地域医療への初志を貫徹しつつある人物を思い浮かべるであろう。しかし秋野氏の場合は、大方の予想には当たらない。彼は、ほんの数年前まで第一線の研究者として活躍しており、大腸がん抑制遺伝子発見という業績まで残している。
秋野氏が今、こうして別海の地にいたるまでには、高志と挑戦、そして蹉跌が幾重にも折り重なった道のりがあるのだ。

がん治療への志を胸に国立がんセンター東病院へ

1998年から勤務した市立室蘭総合病院在籍時に、専門科への興味ががんに収束していったと言う。
「興味は、内視鏡手術と抗がん剤治療に向けられていき、がんは化学療法で完治するのではないかと考えるようになっていました。そこで、内視鏡手術と化学療法の双方を一流の環境で学べる国立がんセンター東病院への転属を希望。医局にはかなり無理を聞いてもらい、なんとか実現しました」

あえて築地にある国立がんセンター中央病院ではなく、千葉県柏市の国立がんセンター東病院を選んだのには理由がある。
「築地だと生活にお金がかかることも、ひとつの要因ですが(笑)、中央病院では担当分野が細分化されすぎていた点があります。一方、柏は志を持ってがん治療の道を選んだ者が集まる場所で、比較的自由な雰囲気だったから医局派遣の医師など、ひとりもいませんでした。自由闊達にものを言い合う気風に満ちあふれていた。本当に良い経験をさせてもらいました」

自らを「のめり込む性質」と評するとおり、同院での1年間は壮絶とも言えるスタイルで勉強に取り組んだ。
「持てる時間のすべてを勉強に費やしました。無給の研修医のためお金がなかったからということもありますが、内視鏡も化学療法も学びたいので時間もなかった。病院にあった1日500円、共同浴場つきの研修医部屋に居着いてしまいました(笑)。あの1年は365日、ほとんど白衣を着たまますごしたように記憶しています」

国立がんセンター東病院の日々を語る秋野氏の表情には、大きな満足感が浮かんでいる。さぞ濃密な時間であったのだろう。そして、その1年は同時に、以後の歩みを左右する大きな「気づき」に出会った時期でもあった。研究への志が芽を出したのである。
「日本最高峰であるはずのがんセンターでも、やはり患者さんは命を落とします。進行性のがんに対しては、最高峰であっても最先端であっても、治療には限界があるとよくわかった。ならば、がんへの対抗策として重要なのは、早期発見なのだと考え始めました」

研究への歩みをあと押しした、こんな本音も漏らす。
「患者さんが命を落とすことそのものを重荷とは感じませんでした。ただ、がんセンターは日本最高峰であるがゆえに、先端医薬の臨床データや5年生存率データなどを集め、分析する使命を負っています。それらの作業が、どうしても好きになれなかった。もっとダイレクトに、がんに打ち克つための目標を持ちたかった。研修期間終了時には、ありがたいことにがんセンターの先生から『残らないか』とお誘いいただきましたが、大学に帰って研究に進もうと決めました」

研究との引き換えに無医村で3ヵ月間勤務

母校である札幌医科大学に戻るにあたっては、教授に正直に希望を申し出た。しかし、反応はあまり好意的なものではなかった。当然である。帰局後は医局員としてがんばる前提で呑んだ、国立がんセンター勤務だ。戻るに際して「研究に進みたい」とさらなる我がままを言う医局員に、良い顔ができるはずがない。
いわば交換条件として示されたのが、無医村での3ヵ月間の勤務。秋野氏は素直に受け止め、医局からの要請に従った。そして、この3ヵ月間が、秋野氏の胸に大きな痕跡を残す。後の選択に影響を与える、大きな痕跡を――。

「場所は北海道浜益郡の浜益という無医村でした。赴任時の私の気持ちは、明らか。3ヵ月間我慢すれば大学院で研究できる。
 鹿やきつねが頻繁に出没しました(笑)。インターネットはアナログの一般回線でメールのやり取りがやっと、携帯の電波も不安定。でも、いっさい気になりませんでした。期間限定の勤務ですから。勤務態度も絵に描いたような冷たいものでした。診療時間は、気もそぞろ。やりたいのは勉強ですから、診療所を閉めてからの自由になる時間を心待ちにしていました。
地域に、あんな冷淡な医師がいてはいけない。患者さんの話を聞こうともしない。住民と顔を合わせたくないので、外出もしない。がんにだけは興味があるので、患者さんの腫瘍マーカー検査だけは率先してやる。地域に対して、本当に無礼な振る舞いをしたと思っています」

偉業を達成してもなぜか満足はなかった

もちろん、浜益での仕事に対して後悔の念は後に抱くもの。当時の秋野氏は、当初の予定どおり、3ヵ月間の勤務が終わり次第、いそいそと札幌医科大学内科学第一講座大学院に入学。附属がん研究所分子生物学部門に属し、講師である豊田実氏の研究グループに合流していった。
「豊田先生は、米国で成果をあげられた後に、日本で分子生物学の分野で第一人者と言われるようになった方です。日本でも指折りの研究者が札幌医大にいらっしゃると知ったときの驚きと喜びといったらありませんでした。がん早期発見の研究がどうしてもしたいのでご指導願いたいと申し出て、快諾していただけました」

ここでも、のめり込んだ。消化器を研究分野とし、毎日、深夜3~4時まで実験室にこもっていた。毎日の睡眠時間は、平均して3時間ほど。
「実験は、なかなか結果の出るものではありません。しかし、何度かに一度、突然出る。恐ろしいほどの麻薬性があるものです(笑)。いつの間にか、ものすごい高揚感の虜になってしまいました」

一方で、このころから秋野氏は葛藤を抱えた生活を余儀なくされていく。早期発見の方法論を見つけるのは臨床の役に立つからだとの初志と、純粋な研究への喜びが両立しなくなっていったのだ。
葛藤と言うよりは、むしろ、罪悪感に近いものだったのかもしれない。実験にのめり込んでいく自分が、間違いを犯しているかのように感じる。生活のハードさも相まって、やがて、心のバランスを崩していった。うつ病を発症し、半年ほど研究がストップした。

それでも、3年目に研究の成果は出た。遺伝子RASSF2に大腸がんの進行を抑える働きがあるとわかったのだ。すぐに米国消化器病学会誌で発表され、大きな注目を集める。米国で発表された偉業は、北海道新聞の一面でも取り上げられるが、成果への華々しい反応がまた、秋野氏を追い詰めていった。
「周囲はたいへん評価してくれました。しかし、私の目には研究分野の現実が見え始めていた。私のやりたいのは基礎研究ではなく、臨床に役立つ、たとえば診断キットの開発です。ですが、キット開発には膨大な予算が必要で、とても地方の公立大学で行えるものではありません。サイエンスは決して平等ではないのです」

まわり道をしたが望んでいた道に戻る
いつしか原点に帰ろうと決意をし、今度もまた自ら手をあげて、町立別海病院に赴任した。

気づくと、あれほどこだわっていたダイレクトながん克服の研究から、はるか遠いところに立っていた。臨床の"勘"を失いつつある自分にも気づいた。果ては、浜益での自分の振る舞いに思いがいたった。
「なんて失礼なことをしたのだろう――と。父親は、かつて天塩という田舎町で内科医をしていました。あるとき、悩みを打ち明けると、『実験ばかりやっているころお前に、天塩のようなところで医師になると言っていたはずなのに――と苦言を呈しただろう』と言われました。憶えていませんでした」

いつしか原点に帰ろうと決意をし、今度もまた自ら手をあげて、別海病院に赴任した。
「実は、この病院には、卒後1年目に当直で来ています。『こんなところでは、絶対に働きたくない』と思ったのを鮮明に記憶しています(笑)。たぶん、へんぴな場所で活動する医師を、ばかにする気持ちもあったと思う。振り返れば、あのときすでに医師としての歯車が狂い始めていたのかもしれませんね」

過ちは犯すか犯さぬかではなく、気づけるか気づけぬかだ。気づき、過ちを犯す以前の状況にまで戻れる強さこそが、人を成長させる。
「4年も臨床の現場を離れていて、本当に戻れるのかと不安にもなりましたが、戻ってみると、たった4年では、医療はたいして変わるものではないとわかった(笑)。インターネットを使えば、どこにいても最新の医療技術を学べます」

ずいぶんまわり道をしたが、臨床の道に戻ることができた。秋野氏は晴れ晴れとした表情で語る。
「別海での生活では、こちらから地元の人たちに飛び込んでいます。この町では、友だちをつくろうと思った。だからみんなに『9?5時はいいけど、5時以降は〝先生?はやめて』と言っています」

DOCTOR’S MAGAZINE 2008年3月号より転載 (取材:中村敬彦 文:清水洋一 撮影:田口昭充)
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